プロフィール

こんにちは!うち子です。

親子でカンタンに日常英語を取り入れられる「おうち英語」のマンガを描いています。

「うち子って何者!?」という皆さんのために、ざっくり書き出しました!

私ってこんな人!

 

 

うち子のプロフィール

 

誕生〜小学校時代

1980年代、神奈川県某所で生まれる。兄が1人の2人兄妹。

私が4歳の時に自営業を始めた多忙な両親の元、幼児教育とは程遠い幼少期を過ごす。

 

文字の勉強や足し算・引き算は小学校に入ってから。(保育園でやったのかもしれないが、全く覚えていない)

中でも算数はニガテ。小1の秋、クラスメイトに「65に、いくつ足したら100になる?」と聞かれ、なんの変哲もなく「45!」と解答。今考えても終わっている。

  

昔から勉強で「得意なこと」は何一つなかったが、強いてあげるとすれば「絵(マンガ)を描くこと」だけはクラスの誰よりも頭が出ていた(と、思う)

休み時間には必ず紙とペンを取り出し、自分の机で絵を描いていた。その周りを囲むようにクラスメイトが私の絵を見に来るという光景が確立される。

なお、この頃の将来の夢は「マンガ家になること」というありふれすぎたもの。

  

小学校3年生の時、「マンガの書き方」みたいな本を手に入れる。

それによって原稿用紙やペン・筆・インク・墨・スクリーントーンなどの知識を得て、お年玉でひととおりそろえる。

その後20年ほど経過した頃「パソコンでマンガを描く」ことが主流になるなんて全く知る由もなかった私はせっせとトーンなどを切って貼っては喜んでいた。

  

すでに中学校に入学していた兄に「中学校から英語が始まるんだぞ」と脅される。

現代と違い、小さい頃から英語に触れるなんてことのなかった時代。

かろうじてローマ字を習っていたことでアルファベットこそ知ってはいたが、今考えるとそのほかの英語の知識は全くなく、現在では多くの幼児が歌える童謡の一つも知らなかった。

   

小学6年生の終わり、突然担任が「中学入学までにローマ字を完璧にするぞ」と意気込み始めた。

「あとで必ず私に感謝するようになるわよ!」と恩着せがましく言われたことを忘れたことはないし、その後大人になって「だったら身近な英単語でも教えておいてくれればもっと役にたったのに」と心の中でイチャモンをつけていたことも拭えない記憶である。

  

  

中学校時代

英語は当たり前のように中学校1年生からスタート。それまで英単語というものに触れたことは一切なく、代名詞の「He(彼)」「She(彼女)」を習った時に軽く嫌気と絶望を感じる。

 

「table(テーブル)」は「タブレ」にしか見えない。

 

「Wednesday(水曜日)は「ウェドネスディ」にしか見えない。

 

1年の「月」全てに名前がついていると知って絶望感はさらに深くなっていく。

 

ちなみに、やはり「ローマ字」が役に立ったと思ったことはなかった。

 

中2で英語教師が担任になった。

ある日の授業で当てられた際「あなたは昨日、テニスをしましたか?」を英文にしろと言われ「Did you played tennis yesterday?」とクラス全員の前で解答。

担任にそのままの文を黒板に書かれ、

担任「みなさんコレで正解ですか?」

全員「違いま〜す」

の流れになって死にたくなる。

その後、中学2年の終わりに塾へ通うようになるまで英語と担任が嫌いだった。

  

  

英語学習の転機

算数が数学に変わってもニガテなままだったし、前述したように英語も嫌い。かといって国語もそれほど得意なわけでもなかったし、社会も理科も興味はない。

ただ数学が壊滅的にダメだったために自分は「文系」寄りだと自覚していた。

 

高校受験が視野に入ってさすがに学力に不安を覚えたため、友人と一緒に塾へ通うことに。

塾に入ってしばらくした頃、1人の先生に恋心を抱く。

彼(Y先生)は英語を教えていたが、特にイケメンでもなんでもなく誰から見ても特段パッとしない先生だった。

ある日、Y先生との会話で胸が熱くなってしまった私は彼を好きになってしまったことに気付き戸惑いの日々が続く。

 

Y先生はビートルズの熱狂的なファンであった。

それまでビートルズの知識なんて全く皆無に等しかったが、その半年後までにはメンバーのフルネームや生い立ち、曲のほとんど全てを頭に入れてしまい、なんなら歌えるようになっていた。

 

「Y先生に褒められたい!」その一心で、塾の単語テストで出る課題を毎回完璧にこなし、必ず満点を取っていた。(単語テストなのでただ覚えていれば満点が取れる)

実際、Y先生に「偉いね」と褒められ、それをオカズに生きていた。

英単語を覚えてY先生の授業を受けるうちに英語の学力(だけ)がどんどん伸び始め、次第に「得意科目は英語」と言い始めるようになる。

同時期に、英語の堪能な大学生(女性)の先生に憧れを抱き、高校生でホームステイがしたい!という野望が芽生え始める。

すっかり英語が好きになっていたころ。文化祭の英語暗唱大会(中3の部)に選出され、全校生徒の前で発表した。

 

受験を控えた秋、自室にビートルズのポスターを貼りまくり、勉強はどうしたのかと母に叱られる。

しかしビートルズの歌の歌詞が頭に入ったことによって、文の成り立ちが見えるようになってくる。

 

ある時のテストで「『should』の後ろにくる語を選択せよ」という問題が出るも、”should”の意味すらわからなかった私。

その時にビートルズの歌の歌詞を思い出し”should”の後ろが動詞の原型だったことから、それが助動詞であると推測し、見事正解。趣味もムダではないと実感。

 

受験を控え、ビートルズのCDアルバム全てを封印し母に預ける。

相変わらず数学と理科はできないが、国語と社会はなんとか形に、英語は得意科目と化す。

 

神奈川の県立高校を受験。

受験が終了したその日に母にCDの返却を要求。食い入るように聞き倒す。

高校受験に合格。後日、点数を確認しに行ったところ英語は満点(50点)を記録していた。(過去問でもそんなことはなかった)

ちなみに数学と理科はそのおよそ半額を叩き出していた。

  

  

高校時代

高校入学と同時に中等部の塾へ通うのも終了。それと同時に同じ系列の高等部の塾に入学直後から通い始め、Y先生と会うことはなくなる。

それなりに頑張って入学した高校なのに、時はギャル文化全盛期。

生徒はギャル男・ギャル女と地味な学生のどちらか。もともと自分自身がクセの強い性格ということもあり、全く馴染めず。

そのうち教室に登校できなくなり、保健室などで大半を過ごすように。

 

バイトには精を出して通うが、学校では勉強どころか出席日数が足りなくなり、いつも留年の危機に直面するが、担任のおかげでなんとか進級していく。

中学の時から希望していた「海外ホームステイ」を実現させるため、貯金をしていくも両親には反対される。

「『可愛い子には旅をさせろ』と言うでしょ!」と説得する私に対し、父は「だって、お前かわいくないもん」と言い放つ。

その瞬間、全てを諦めた。父ってすごいと今でも思う。

 

それほど勉強ができる(したい)わけでもないのに生きている価値が見出せず、兄の影響もあって大学受験を目指し始める。

進学希望の大学が片道2時間半と遠すぎ、両親に反対される。

諦めかけたその時、担任に「希望大学には姉妹校が存在する」と教えられ、紹介された専門学校に進学を決意する。

 

 

専門学校時代

晴れて専門学校に入学を果たしたが、もともと勉強が好きというタチではなかったのでパッとした成績はおさめなかった。

ただ必修科目の英語では先生が全て外国人だったため、それなりに英語の聞き取り能力だけは鍛えられていく。選択コースでは中国語を学んだ。

やはり勉強よりもバイトにうつつを抜かし、ついに貴重な学生時代に学業に本腰を入れることはなかった。

  

  

社会人時代

学生時代を終え、語学とは全く関係のない携帯電話ショップで仕事をし始める。

当時、携帯電話業界は右肩上がり。他社との競争は当然あったものの、電話機自体が黙っていても売れていくという黄金期であった。

 

数年勤めたところで後にも先にもないくらい大きな「大失恋」を経験。

将来を具体化した途端、白紙になってしまった。しばらくはどうやって生きていたのかあまり覚えていない。

貯金で夢だったクルマを購入し、2年ほど乗り回す。

 

ある日ボーッとTVを観ていると、ある女性芸能人の半生が語られていた。

彼女のことはよく知らなかったが、30歳で留学のため単身アメリカに渡ったと説明がされ、「30歳で留学ってできるの!?」と衝撃を受けた。

当時、世間知らずだった私は「留学=10代の学生がすること」だと思っており、そんな「イイ歳」で外国に行くなんて考えたこともなかったのだ。

 

ちなみに当時24歳。

 

私でも留学ってできるのかも…そう思っていた矢先に持病の喘息が悪化して難治性肺炎を発症したことにより1ヶ月間の入院を余儀なくされる。

病院のベッドの上に寝ている間、携帯電話で入学情報を収集しまくり、資料を取り寄せまくって調べた。

本格的に語学留学を目指し始めてしばらくしたころ、仕事を辞めてクルマも売り払った。

そして服用していたステロイドホルモンと不摂生のせいで体重が13kg増える。

 

およそ半年に渡り準備をして、2007年の暮れにロサンゼルスへ出発。

 

 

ロサンゼルス留学時代

L.A.へは中学卒業時に友人と訪れ、友人の親戚の家にお世話になったことがある。そして帰国の時に「日本に近い」という理由で選択。

到着してしばらくは当然ホームシックにかかったり、ホームステイ先と少々揉めたりしてそれなりに苦労した。

 

ひと月もすると現地の環境に慣れてくる。

3ヶ月も経つと英語でのコミュニケーション及び生活に慣れてくる。

そして半年も経つと英語で話す夢を見るようになる。

同時期に、日本語の単語やフレーズが出にくくなるという「留学生あるある」をひとしきり経験。

 

ホームスティ先を変わった留学生活およそ3ヶ月目。同じスティ先に住んでいた台湾人の友人(アンジー)と出会う。

この先、彼女との友人関係は帰国後も続いていくことになる。

 

新しく住み始めたスティ先はロサンゼルス市内の病院に勤務する黒人のオバチャンが所有する家で、アンジーともう1人の台湾人が住んでおり、過去にはちょこちょこ日本人もいたようだ。

ちなみにいずれのスティ先でも食事が合わなかったり、ホームシックで食べる気が起きなかったりという生活を3ヶ月続けていたらなんと10kg痩せていた。

 

先生に「アメリカに来てから体重が22ポンド減ったよ!」と伝えると

「普通はそのくらい太るもんだぜ!?」と驚かれる。

病気のためにプラスされた体重がほぼ元どおり。ただし、それでもちょい太めなはずなのにアメリカ人に紛れて生活していたためむしろ自分は「細め」と錯覚してしまう。

 

なんだかんだL.A.に1年半滞在。

その間にリーマンショックが起きて日本も大変なことになったり、寛平ちゃんがアースマラソンでアメリカに到着したなんてニュースを聞いたり、WBCでイチローが最後の韓国戦(決勝)で神ヒットを打ったりしたのを現地で観戦したり、1人でアメリカ大陸を縦断・横断の旅に出たりして満喫。

2009年6月に帰国。

 

 

帰国後

帰国して3週間がたったころ、なんとまた難治性肺炎を発症。1ヶ月の入院を余儀なくされて就活もできなくなり、暇すぎる病院のベッドの上でL.A.旅行記をまとめあげる。

 

就活を開始してもリーマンショックの影響と自身のブランクにより、思うように英語に触れる業種にはつけず。

仕方なくその年の暮れ、依然と同じく携帯電話ショップ(別店舗)で働き始める。

思いのほか外国人が多い地域だったらしく、外国語担当のような扱いを受けてしまい、ビジネス英語には一切触れたことのなかった私は四苦八苦していた。

イヤイヤ始めた業種に再就職して1年半、また転職。

 

 

思わぬ角度から現れた「たーさん」と結婚

 

そもそも私が本格的にアメリカ語学留学を決意したのは、なんの資格も手に職もない私が将来、もし結婚できなくても両親亡き後に生きていくため「語学を身につけておけばなんとかなるかも…」というのが理由のひとつだった。

若い時に大きな失恋をした私にはこの時まで6年も浮いた話がなく、

「きっと私は一生誰とも結婚することなく人生を終えるのだろう」

と、漠然と感じていた。

 

このころ新しい職場で1人の女性と運命的出会いをする。

 

彼女は私より年上で、ひと月遅れて入社してきたのだがその美貌と能力からすぐに「姉さん」と慕うべき存在になった。

隣のチームの彼女とは何かと話すようになり、そのうち彼女の「いとこ」の話を聞いた。

 

別の日、いつものようにお昼休みに話していた時

私「姉さん、男トモダチ紹介してくださいよ〜」とノリで言った私に対し

姉「いいよ!じゃあこないだ話した「いとこ」を紹介するよ!」

と、言うが早いか「いとこ」に電話をし出す姉さん。

 

驚く私をよそに、姉さんは「いとこ」との食事会をセッティングしてしまった。

 

正直なところこのような「紹介システム」でどうにかなるなんて思っていなかった私は遊び半分で行った食事会へ。

 

そこで初めて出会ったのが「たーさん」であった。

 

出会ってからあれよあれよとデートを重ねた1年3ヶ月後、気付いたら結婚してしまったのだった。

 

 

たーさんって、こんな人

私の人生においてなかったはずの結婚という「予定」が突然ねじ込まれたことには未だ驚いている。

しかし、たーさんによれば「森三中」のメンバーでも好きになる可能性は十分あるというストライクゾーンの広すぎる人なので、ある意味当然の結果なのかもしれない。

 

誤解のないように付け加えるが、私は森三中の皆さんが大好きだ。

できることならメンバーに加わって「森四中」になりたいとさえ思っていたくらいなのであしからず。

 

蛇足ではあるが彼は待ち合わせ当日、会社の接待で朝まで飲んでおり、待ち合わせに3時間遅刻した。

本来ならちょっとくらい腹を立てるポイントなのかもしれないが、私は大好きな「姉さん」とお茶をしながらケーキを食べることができたので「待たされた」感がなかった。

そもそも出会う前から「本気のお付き合いに発展することはないだろう」と踏んでいたのでその軽いカンジが功を奏したのではないかと今でも思う。

 

ちなみに普段、彼は遅刻なんてしないキッチリとした人間だということを念のために付け加えておく。

 

 

2015年、娘・おゆり誕生

2013年に結婚した私たちは翌年、結婚式とハネムーンを堪能。

2015年8月に娘・おゆりが誕生した。

私には妊娠と同時に大きくなってしまった子宮筋腫があったため、予定帝王切開で出産。

 

暑い夏の、それはそれは天気のいい日だった。

 

初めての育児に奔走する私たち夫婦の時間は、それまでとは比べ物にならないくらい超特急で過ぎ去っていった。

何もかも手探りで正解がなんなのかも分からず、いつ終わるとも知れない夜泣きやその他の悩みに押し潰されそうになりながら今日を迎え、娘は健康で心の優しい幼稚園児に成長した。

 

おゆりが生まれ、おうち英語を始めたキッカケや現在の様子、L.A.滞在記などをこのブログに描いています。

 

プロフィールを読んでくださって、ありがとう!

 

続きはぜひマンガと記事で楽しんでいってくださいね^^

 

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